・人間とは生成途上の力である、ということを考える。
作成のポイント
・私たちは常に変わっていくものである。では、変わっていくとはどういうことなのだろうか。
・「織りたての布」(21節)は、直訳すると「まだ晒していない布」。晒していない布を洗濯すると縮んでしまう。だから、そんな布で継ぎあてすると、古い布をひっぱって破ってしまうのだ。
古い革袋に、新しいぶどう酒を入れたらどうなるか。新しいぶどう酒は、ぐんぐん発酵し、たくさんのガスを発生させる。そのため、もう皮が伸び切ってしまった古い革袋に新しいぶどう酒を入れると、破裂してしまうのだ。
さて、ここでイエスは、何を教えようとしているのだろうか。
私たちの「思考」をぶどう酒、その思考を表現する「言葉」を革袋としてみよう。私たちの思考は、子どもから大人になるにつれ、色々な経験、出会いを通して、広く深くなっていく。そのとき、私たちが子どものときと同じ言葉しか持っていなかったらどうなるだろう。
私たちは成長するにつれ、神の創造された世界の美しさを、単純さ(「神さまの造られた世界は素晴らしい」)だけでなく、その一つひとつの違い、複雑なつながりを通して感じることができるようになる。例えば、葉っぱ。幼稚園に入ったばかりの子どもたちに葉っぱの絵を描いてもらうと、そのほとんどが「緑」単色で描くだろう。その頃の子どもたちだけは、単純に(素直に)世界の不思議を感じることができる心を持っているからこれでいいのだけど。
しかし、子どもたちは成長するにつれ、葉っぱは「緑」単色でないことに気づく。そして、その気づきと同時進行で、子どもたちの思考は広がり、深まっていこうとする。だけどそのとき、子どもたちが「緑」という言葉しか持っていなかったならば、広がっていこうとしている(深まっていこうとしている)思考は行き場をなくしてしまうのだ。そして、行き場をなくしてしまった思考は、神の創造された世界の美しさを「単色」でしか語ることのできないイライラを内に抱くようになる。そうじゃないと気づいたのに、それを表現できないイライラ。私たちはイライラを内に抱いたままにしておきたくない。そうなってしまったとき、人はイライラを解消するために、「神の創造された世界の美しさ」を忘れようとするのだろう。もしくは、「緑しかない」と言い張るようになるか、だろう。
私たちは、神の創造された世界の美しさを表現するのに、「緑」色だけではなくて、萌黄色・松葉色・木賊色・緑青色・柳煤竹色・若竹色・・・があることを学ばなければいけないのだ、と思う。
そのために私たちは本を読むのだろう。「思考」と「言葉」は同時進行で広がり深まっていく。そしてそれは、どこまでいっても終わることはない。しかしその過程で、私たちは、一人ひとりが違っていること、そしてその違いが尊いということの本当の意味を、神の創造された世界の美しさを知ることができるのだ、と思う。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□1番 「みんなでたたえましょう」
□改訂版8番 「みんなでたたえましょう」
<用意するもの>
古い布(着物の古い端切、何度も洗った夏服の端切など出来るだけ古いぼろぼろの物)
新しい布針、糸、ハサミ
高学年 それぞれに古い布と新しい布を10cm角程度
低学年 古い布、新しい布を大きめに
生徒は古い布と新しい布を自分で縫い合わせてみる。その後両方を引っ張ってどうなるか試してみる。
大きめのハンカチかタオルくらいの古い布と新しい布を先生が縫い合わせて皆で引っ張り合ってみる。
※ビジュアル聖書百科p128皮袋の絵
□古い布が手に入りにくい場合ペットボトル、昔の水筒、竹筒、瓢箪、等、お酒や水を入れていた物、(実物や写真)を集めてみんなで水を入れてみたり出してみたりしてどれが便利か、較べてみても面白い。
・ファイサイ派の人たちはイエスさまの教えをよいものと認めませんでした。
イエスさまは、どんなことを大切にされていたのでしょうか?イエスさまの行われたことを、聖書の中から拾い上げてみよう。