・「新たに生まれる」とはどういうことなのか、を考える。
作成のポイント
・ヨハネ福音書をそのまま読むと、そのメッセージは、洗礼を受けクリスチャンになった人が神の国に入る、ということである。では、「クリスチャン」とはどういう人なのだろうか。
・新しい人:「十字架によって神と和解させられ、敵意を滅ぼされた人」エフェソ2章15節。
イエスは、子どものように神を求めることの大切さを説いた。しかし、ここで注意しておきたいのだけど、「子どもになること(子どものままでいること)」と、「子どものようになること(子どもの心を大切にすること)」は違う。
私たちは、イエスの教えを「子どもになること(子どものままでいること)」と理解していないだろうか。しかしこれだと、大人の否定、である。子どもたちは、それぞれが、大人になっていく。そして、その歩みをこそ、大人たちは支え応援するのだ。「自立し成熟した大人になってほしい」、と。
では、子どもと大人の違いとは何だろう、その当たりから考えてみよう。
子どもとは、大人を「答えを知っている人」と想定している人のことである。だから子どもたちは、「あれはなあに」「これはなあに」と大人たちに尋ねるのだ。これに対して大人とは、答えがなにか分からなくても日々の務めを果たしていく人、と言えるだろう。人生の意味は何かその答えが分かったから仕事をする、という人は大人ではない。だって、これを逆さにすると、人生の意味が分からないから働かない、ということになる。これはまるきり子どもの意見だ。それに対して、大人は、人生は不条理な出来事との出会いであることを知っている。だから、人生の中で上手くいかないことがあっても、「うまくいかないからやめた」、と務めを放り出すことはしない。そうやってもいいけど、そんなことをしたらよけいに大変になることを大人は知っているからだ。そう、大人は偉い、のだ。そして、だからこそ、つらい、のだ。しかし、だからこそイエスは、そんな大人たちに、子どものように神を求めることの大切さを説いたのだと思う。そして、そんな大人であったニコデモに、イエスは、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」、と言われたのだろう。
新たに生まれなければいけない、と聞いたニコデモは、大人がもう一度子どもになることはできない、と答える。そう、大人は子どもに戻ることはできない。しかし、子どものように神(の国)を求めることはできる。私たちの世界は、弱いもの、無力なものが虐げられ続けているところである。私たちはそんな世界で生きていかなくてはいけない。自分が何をしたって世界は変わらない、とあきらめという波(虚無)にのまれてしまいそうになる。神の国を求めるとは、そんな波にのみこまれず自分が起点となり平和を目指す、ということではないだろうか。今日の聖句を逆さにすると、「神の国を見る(目指す)人は、新たな生命を生きる人」となる。これをイエスは、「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5章9節)とも言われた。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□8番 「せいなる」
□改訂版12番 「聖なる聖なる」
ニコデモさんは夜,イエスさまの所に行きました。明るいときに行くのが恥ずかしかったからかな?
みんなの前できくのはちょっと恥ずかしいこと、あるよね。今日はニコデモさんのようにこっそりきいてみよう。
<用意するもの>
高学年 白い紙と鉛筆人数分
低学年 幼稚科大きな布(ふろしき、カーテンなどなるべく黒っぽい色で)
内緒で聞きたい事を紙にかいて先生に渡します。
先生は誰がかいたか言わないでみんなに答えます。(紙に自分の名前を書かなくても良い)
先生は大きな黒い布を頭からかぶります。生徒はその中に一人ずつ入って夜にイエスさまを訪ねたニコデモさんのように先生に何か質問します。
※ビジュアル聖書百科P283ニコデモ参照
・ニコデモ厳格に律法を守るファリサイ派でした。知識を持つ、きちんとした人でしたが、イエスさまをたずねてきて話を聞いても信じませんでした。それに対してイエスさまは「わたしが地上のことを話しても……」(3章12節)と言われました。
知識は、神の国に入るために大切でしょうか?また、行い、身分、お金などは大切でしょうか?
イエスさまは、なにが大切だとおっしゃっているのでしょうか?
みんなで話してみよう。